天龍山龍雲院は白山前町七十九番地にある。 臨済宗鎌倉円覚寺末寺、もと神田御茶の水辺にあったが、明暦三年の火災に類焼して茲に移ったのでる。
此の寺に腹帯観世音、脇立(不動、釈迦、毘沙門天)同作ありと伝へられ、新編江戸誌の「略縁起」に云ふ。 尊像は行基菩薩の作にして、元暦の頃、九郎判官義経都を落、奥州へ下向し給ふ時、北の方瓶合坂に至り俄に産気を催ふし苦痛甚だし。 山中に一ツの堂あり、弁慶是を見るに観世音なれば丹精をこらし祈奉るに、忽ちやすヽと平産し給ふ。 委しくは義経記に見えたり。 其外難産の者此観音の利益を以て安産するものあげてかぞへがたし、不動明王、毘沙門天、同木同作也、共後故あって当寺へ安置し奉る也。
と記してある。 寺僧特に本堂へ案内せられて同寺所蔵の観世音像三体を披拝せしめられたが、三体何れも古色あり、由緒あるべき仏体とも拝せられたるが、惜しい事には同寺同禄の災に罹り、古き文献何れも焼失し、今何等是に関する由緒を知るべきすべなしと語って居た。
同寺墓地には蜷川新左衛門一家の墓あり、又西丸一村留守居役、松田相模守の墓あり、松田相模守は御書院番を勤め、性厳格、騎射をよくした人、寛政五年十一月二十五日卒、墓碑には
円徳院殿朝散太夫相州刺史義山丁忠大居士
と刻してある。 龍雲院は白山道場と称し、南天捧中原東洲師在世の頃は此の道場に於て提唱があって参禅者が少なくなかった。