瑞雲山念速寺、真宗大谷派末寺、戸崎町八十五番地、小石川誌料に、当寺往古は小石川餌指町にありしが、年暦は伝へず、同所馬場のあたりへ移れり、夫より今の地へ移りしは水府邸小石川御門外へ結構の時たりと寺借のいへり、さればこの地へ引移りしは、明暦祝融の後なるべしと記 してある。
門内に一基の自然石の墓碑あり、下に髑髏を描き、上に
釈迦も
孔子も
業平も
鉄舟題と書し
玄賢思成居士墓とあり、是れは佐藤源助正長、文化九年二月生の寿碑で明治十八年に建てたも のである。 髑髏は正長の描きしものであらう。 正長は文晁の門人、又応挙の法を取つて一派の書風をなし、天俣年間、桜花の図を描いて将軍慎徳公に奉つて厚く賞せられ、又孝明天皇に書を献じ、和宮に岐蘇図を献じたる事もあつたと碑文に記いてある。 明治十年自ら寿碑を立つるに臨み、鉄舟居士に三句を返し、玄覽思成居士墓の七字は高橋泥舟居士の書に成る、二十年十二月二十一日逝去、年七十七と云ふ。 裏面に、泥舟翁更に筆を取つて銘を作つて曰ふ。
釈迦亦兮、孔子亦兮、業平亦兮、盡天盡地、無不髑髏、大夢一覚、月白水流
碑後の撰文は真宗准一等学師小栗栖香項師である。
鐘楼あり、鐘は西村和泉守藤原政時作、瑞暦八年戍戊十一月とある。