天長山是照院、京都妙心寺末寺、戸崎町三十八番地にあり太郎山続きの崖に倚れる寺院である。 当寺は旧高崎藩大河内輝耕子爵家の菩提所である。 尚同藩士の墓も多くある。 住職は天野宗春師。
戸崎町六十七番地にある。 安閑寺は名炙の寺として有名である。 今でも炙治を求むる人の訪ふもの頗る多い。 当時は往昔から安閑天皇の尊像を安置してある。 柳国寺の草創は、安閑天皇の寵をうけて居た。 大速大友金村の季予金枝と云ふ者、天皇の崩御後、其の子金磨と河内石川郷に住み、高屋の御山陵を守護し奉りしが、其後、金枝剃髪して釈珍議と号し、自宅を以て道場となしたのが初めで、聖武天皇の天平年間石川の道場を高屋町に移して一寺を経営し、天皇安閑寺と称した。 建武年間兵火に罹つて焼けたので三河国宝飯郡に移つて小庵を結び慶長年中、尊像を護つて関東に下り、初めは江戸市ヶ谷に結庵せしが、正保二年此の地に移つた。 四十七釈義講を経て今は幸運連綿たりと云ふ。 今は真宗に属す。
戸崎町七十七番地にある。 遍照山光明院と云ふ浄土宗、智恩院の末寺。 始めに本郷二丁目にあつたが、明治三年の大火に焼け此地に移る。 江戸砂子の富坂にありと記しあれば、本郷より此 地に移る前同地にありしとかや。