小石川八千代町四十三番地から四十七番地までの間、東西長九十間、南北幅十一問二尺を小石川馬場、又は築地馬場と称したのである。
〇府内備考に、馬場、築地中に在を以て築地馬場と称す。 万治二年の取立にて武家調馬の為めに設けらる間数及築立始末等の事、馬場守助右衛門が書上にある。 全文左の如し。
一、小石川馬場の義は承応年中小日向小石川両所武家方御尾敷辺築地御取立に相成候節、私先祖助右衛門義、其頃牛込辺住居罷在候砌、御請負被仰付、右築地出来の上、同所之猶又馬場御築立の義者、万治二亥年被仰付出来後、右両所馬場守被仰付、右御用等骨折相勤候に付其節築地御奉行大森半七様、曾根源蔵様より久世大和守様へ御願の上、右土収場跡牛込天徳院下に於て地所被下置、当地牛込五軒町と相唱候場所に御座候、右馬場守の儀、私一人にて行届兼候に付、外四人の者共割合五人にて相勤申庭候、猶又奉願上候処、願之通被仰、当町私並外四人の、者共にて馬場守仕来候、尤馬場地に是まで異変等の儀有之節者、右五人の者共より町御奉行所へ御訴取計候而已、外向御支配の地にて無御座候
一、右馬場当時稽古定日の義者、大御番上田二左衛門様御門人にて、其余御組稽古御用稽古等無御座候
一、間数の義者、東西長九十間、南北幅十一間二尺、此段別紙絵図面を以申上候
一、右者此度地誌御調に付取調申上候通相違無御座候以上
文政五成年十一月牛込五軒町家持助右衛門
今此の書上げにある馬場は、電車通りかね万の四十七番地の角から現在の横町に沿ふて真直に四十二番地にまで及戌亥ぶもので、是れで大体約八十四間程あるが、電車通りは区割整理後拡められたものであるから、尚今日の電軍道路上にまで馬場は延長して居つたものであらう。 夫れに四十二番地前面地先の道路も尚狭かつたものであるから、此の方へも馬場は延びて居たとすれば彼れ是九十間はある訳である。 幅は南北十一間二尺と云ふから極めて狭長な馬場であつた訳である。
享保二年の江戸中を焼払つた火事は此の馬場辺から出たもので斯んな古い記事もある。
享保二年の一月二十二日申刻、小石川馬場の側から出火して本郷駿河台、小川町、神田から廓内に移り、本町、石町、日本橋から深川までも及び、評定所、公卿の旅館、鍛冶橋等何れも焼失し、大名の邸の烏有に帰したるもの七十二、目見得以上の旗本の邸三百四十九、其他市中の被害は実に夥しかつた。 所が翌二十三日又もや赤城の辺から失火し護国寺音羽町を焼いたのである。