源覚寺は初音町二十番地にある。 常光山向西院と云ふ浄上宗増上寺末寺、もとは智恩院末寺と云ふ。
閻魔堂あり、蒟蒻閻魔として名高い。 蒟蒻閻魔の縁起は友の如くである。
当寺に安置し奉る閻魔大法王はそのかみ小野篁卿一刀三体の御作にして半井和州侯の別荘、池の中より出現し給ひける尊像なり。 すぎし宝暦の頃、或老女眼をなやみ医薬験しなく、其いたみ甚がたかりければ、此尊像に歎き、三七日を限りて日参せり満参といへる夕、尊像老女の夢に告給ひけるは汝が眼病は過去の業感にして平癒すべきにあらず。 されど病苦を忍び誠をあらはす志の事にあらはるゝなれば我片眼をもて汝にあたふぞと見て夢覚にけり。 両眼のいたみ拭がごとく癒え片眼むかしにまさりて明らかと成る事を得。 老女不思議の感謝に驚き其暁本殿に詣で拝し奉りけるに尊像の右の御眼盲えてぞましヽ給へる。 よって世に身代りの尊像とは称し奉るなり、此報恩の為にとて老女の好む所の蒟蒻を禁じて法王の供御に備へ奉りぬしかしてより法王の供御とはならひ侍りける、此蒟蒻を備へて祈願せるに霊験あらたかに利益を蒙る者枚挙するにいとまあらず。 大むねこれに略す爰に法王の本地を尋るに地蔵大菩薩の垂跡にして此菩薩一子平等の御慈悲より一切衆生を済度の大願広大なること言葉にのべがたし目は七難八苦九横の難をすくひ、いかにもして救ひたすけんと思召、変化無量一切に応現したまふゆゑに閻魔法王となり給ひにけり。 くはしくは経據に説が如し。 尚未来無窮の得益これまたうたがひなし。 信心の輩拝礼あらんものは現当二世の大利益を蒙る事前文の如し。 得てしるべし。
東都歳事記正月十六日の条に、毎月、小石川下富坂源覚寺、閻魔参り世俗蒟蒻ゑんまといふとある。 眼病患者の祈願に蒟蒻を奉る縁日参詣者が多い。 尚観音堂、鹽地蔵堂がある。 此の鹽地 蔵尊は此の源覚寺草創前より此の地に安置せるものにて、歯痛の折祈るに験ありと云ふ。 小石川誌料には往昔門前の流より上りしといふ立像、二尺余と記してある。
堀織部正利煕墓、源覚寺にあり。 堀織部正、字は欽文、一字は士績、有梅、又梅花山人と号す。 伊豆守利堅の子、世々幕府に仕ふ。 従五位下に叙し、織部正と称す。 外国奉行となる。 幕府の命をうけ、北蝦夷、樺太の地を巡り、北地警備に就ゐて緊要切実なる建白書を奉り、朝野其の卓見に服した。 後幕府内に於て廃帝に就いて不遜の議僣かに行はれたので其の不臣なる言議を厳斥せる意見書を閣老安藤対馬守に呈したる後、死を以て其の実行を抑へ矯めんとし屠腹して、壮烈なる国士的の死を遂げた。 後に安藤対馬守を坂下門に要撃して其の臀部を斬ったものは実に此の堀織部正の従臣であったと云ふ。 墓は同寺墓地の奥にあって、中央は、父伊豆守瑞荘堀府君之墓及其夫人、其の右は堀君称堀部墓及其の夫人であって、伊豆守の左側にあるものは実に織部正利煕の墓である。 正面には
織部正爽烈堀府君之墓
と刻して碑の裏面に墓表を銘してある。 是を中心にして左右十幾基の一族子孫の墓石が立並んでゐる裔孫の参詣絡えぬ由にて、今尚墓域清く掃かれ香花が手向られてある。
爽烈院堀君墓表(墓石の裏面三方に細刻せられてある)