私は弘化元年の生れで、明治十四五年頃、此の小石川に住む様になつたのですが、其の当時は此の辺一帯残らず田でありました。 昔し小石川馬場であつた処も其の時は田圃でありました。 此の辺は御邸が多かつたが、維新後皆一時に静岡に行かれまして、其の跡は田などになつたのでありました。 指ヶ谷小学校の前は伊賀坂と申しまして、是は伊賀守の邸のある処でそう申しました。 其の当時住んで居た方で記憶にあるのは伊藤音松さんや、百五十年も茲に住んで居ると公ふ米やの伊勢屋さんなのでした。
三河屋の横丁を丸山福山町へ上る処に大きな椎木があつて、そこに番所があつて椎の木番所と呼んで居ました。 向ふに見える西片町の阿部氏の邸は全部桑園でありまた。 誠之小学校はもう其の時は出来て居りました。 此の辺の田は一三四番地の金杉清三郎さんと云ふ人が所有して耕作して居りました。 その子息さんは今は牛込に居ると云ふ事であります。
此の辺は谷で後山の備前守の邸の山を切って埋めたもので、今でも掘ると種々の土が出て来るそうです。 本郷二丁目の萩原太兵衛田圃を埋めたのが初めであつたと覚えて居る。
其の頃此の辺で家の見えたのは今の一百四十六番地書籍会社の所、福山町へ行く辺、橋を渡る前の所、やか葺屋根が二軒、佐藤さんと外一軒ありました。 又金子と云ふ植木やさんの家のあつたのも覚えて居ります。
此の家のトナリは米国人ヒゼンドルと云ふ男が住んで居たので、石組みで築上げた鉄柵鉄門の構への家で、貿易商人か何かであつた、よくない奴であつたそうです。 此処にお妾の池田イト子と云ふのを住ませてありました。 元浅草の芸妓で目玉芸妓と云ふ位で目の大きい女でした。 口も大きいし、夫に姿も大きな女でありました。 月給八十円で雇つたのでしたが、ヒゼンドルが一度帰国し、二度目に来る様になつてから貰ひ切りになり、親まで引取つて世話して居た様です。 此のイト子と五代目菊五郎と関係があつて夫れに出来たのがあの羽左衛門と云ふことです。 娘があつて愛子と云ふ、其の子の婿さんが関屋祐之介、其の子が声楽家の関屋敏子さんと云ふ事です。