白山附近の大通り、即ち電車通りは明治三十年頃迄は極く狭い通りで、現在の氷川下や久堅町通りを思はせる様な貧弱な町が並んで居ったに過ぎなかったが、明治四十一年に市区を改正して電車が開け、電車も元はかね万料理店前が終点であったのを、明治四十四年から巣鴨の方迄延長し、幾度も市区改正が実施されて旧時の面影を止めざるに至り、殊に花街指ヶ谷町辺は所謂百軒長屋と称する荒れ果てた貸家が並び、貧民の巣窟と言った様な有様で、下水の設備も充分でなかったから、降雨の際などは往来が出来ぬ位に下水も溢れ出し、実に見る影もなき有様であったのであるが、三業組合が出来、附近の土地が漸次降昌してからは、下水は改良される、道路はアスハルト詰となる。 全く其面目を一新し来ったのは、住民の為め実に悦ぶ可き事である。 殊に千川の改修工事に着手してからは、柳町、戸崎町、八千代町辺の一部は旧来の面影なく、全然別天地を見るが如き観を呈する程度に道路が改正されたから、完成の暁は山の手の銀座街を出現せんとする程に立派になるであらう。
市区の改正道路の改良に件ひ、商店の繁昌を来すのは自然の勢ひである。 現在の白山附近を之を明治の末期時代に比較すると実に隔世の観がある。 柳町方面の賑ひ、指ヶ町表通りの賑ひは相当に人の目を惹く様になり、千川改修跡の暗渠の上に出現した新街も追々に年昌を来す可く、特に明治四十五年以降花街附近市街の賑ひは表通りを凌駕するの勢ひを呈して、全く貧民長屋時代の面目を一新し、立派な商店界を出現したのである。 本年八月からは同町に奉祀せる八街山不動尊の縁日を毎月一、十五、二十八の三日間執行する事となり、当日は街路に夜店を開く事となり三業見番には舞台を設けて手踊り茶番等を公衆に見せる事となったので、一層賑ひを呈する事となつた。