『賤のおだまき』と云ふ本に、 江戸端々遊所は申すに及ばず、並の所にても芸者の二人三人なき町なしと書いてある位であるから、 元より芸者、酌人或は踊り子の盛んに繁昌した江戸時代には小石川方面にも相当存在はして居たであらうが、其の繁昌のさまは余り多く物の本に記述されて居ないが、夫れでも、音羽町辺の売女、踊り子検挙の記事などがある処から推して見ても、当時同町附近が夫等の盛んに住んで居た場所で、或は小石川では中心的の花柳界であって、共の跋扈振りが余りに目立った処から検挙されたもの或は弊政改革の折に連れて挙げられたものであったらう。 夫れから白山神社前も相当賑かな盛り場所で、粉黛の女共が出没した処であったなぞの記述が諸書に散見して居る。 尚夫れ等を掻き集めて見ると、
一、安永三年版の婦美車紫鹿子に挙げた岡場所かくれざとの中に、音羽の地が記してある。
一、享保八年五月には、音羽町九丁、青柳町二丁(芸者の住んで居た町)の暗所を取払ふと云ふ事がある。
一、宝永二年の吉原書上げに、護国寺門前町横町等を挙げて売女の跋扈を指摘して居る。
一、寛潤平家物語、寛永七年版に指ヶ谷町(白山下)に白山の『ころ蔵』と書いて居るが、是れは所謂私娼であるか、或は今日の芸者に類するものであるか、其の辺の処は確かでない。
一、延宝版の江戸雀に白山権現の宮へゆく此側茶やなり、御まへまで一町余と記してある。