維新前後の騒々しい時代も遇ぎ、明治十年の西南戦役も終り、明治の時代も段々昌平になって来て、十五六年頃に及ぶと今迄の殺伐な時代と異って、 東京市内は反動的に享楽を逐ふ風潮傾向 が著しくなった。 そこで第一番に花柳狭斜の地が盛んな繁昌振りを示してきた。 東京で是迄花柳界繁栄の第一等地は先づ柳橋であったが、是に対して新橋が擡頭して来た。 明治十五六年、東 京には、
柳橋 日本橋区元柳町 新柳町 吉川町 米沢町 橘北北右衛門町
新橋 金春新道(芝と京橋との間にあり) 日吉町 南鍋町
数寄屋町 下谷区同朋町 数寄屋町を総称して数寄屋町芸者と云ふ
よし町 日本橋区 元大阪町 住吉町 葭町 浜町三丁目
烏森 新橋の南 烏森町 日蔭町
日本橋 駿河町 品川町(以上橋北)積荷新道 元大工町 数寄屋町 佐内町(以上橋南)
吉原
講武所 万世橋外 神田旅籠町
天神 本郷区湯島
神明 芝区神明町 三島町
深川 隅田川左岸 仲町
神楽坂 牛込門外 神楽町肴町
本石町 日本橋
新富町 京橋築地 新富町 木挽町
猿若町 浅草
向島 本所 須崎村
赤坂 田町
広小路 浅草
蒟蒻島 霊岸島にあり、富島町に住む芸者
麹町
松井町
西ノ久保
三田
根津
の廿四個所の花柳界を算するに至つたのである。 東京妓情の著者は東京芸妓の平康等級表なるものを作つて同所に掲げて居るが、聊か当時の芸妓の品位を推想すろに足るものがないでもないから、左に記して置く。
【一等】柳橋 新橋
【二等】数寄屋町 よし町
【三等】烏森 日本橋 芳原 神明 講武所 天神
【四等】深川 本石町 神楽坂
【五等】新富町 蒟蒻島 猿若町 西ノ久保 向島 三田 広小路 赤坂 糀町 根津 松井町
右表は冷熱及妓数の衆寡を以て定めたるにあらず、声價を以て次第せしなりと附記してある。
東京になつてからは小石川には芸妓町はなかつた。 小石川に芸妓の現はれたのは、白山三業株式会社の前身たる白山三業組合が明治も最終の年である。 四十五年六月になつて其の指定地の許 可と同時に組織せられて、初めて其の名乗を挙げたのであるので、先に明治時代を通じて小石川には芸妓が居らなかつたも同然であらう。 明治は四十五年八月で終つて直ちに大正元年となつたのだから、白山芸妓は明治時代の空気は僅か三ヶ月位しか呼吸しなかつたのであるが、兎にも角にも白山芸妓は明治生れであることは確かである。 料理店の方では白山附近で営業して居たものは明治時代既に相当あつた。 白山上にあつては万金楼が一番古い。 角金楼と云ふのも相並んであつたが、是れは今日現存しない。 柳町には三十七八年頃、蒲焼料理の武蔵屋があつた。 四十三年頃から今日の柳川の前身たる鳥料理があり、八千代町、今の八千代町に現今のかね万が、当時西洋料理、蒲焼料理、すしと看板賑かに営業して居つた。 其他小料理店、軽便洋食の類も少なからず存在して居たのであつた。
江戸時代の記録には多少とも小石川方面の芸妓に就いて記す処はあるが、前に云ふ通り、明治時代に入つてからは芸妓が此の区には存在しないで、暗娼の地区として柳町八千代町新開の名が挙 げられて居る、樋口一葉女史の『濁り江』に綴られた処は此の附近の銘酒屋を題材として描かれたものであることは有名である。 其の後、大正四年頃の調査に、市内の暗娼地区十六個所に千束、日本橋、郡代、芝神明、亀井戸、渋谷道玄坂下、麻布霞町、指ヶ谷町(白山下三十戸七八十人)箕輪、池の端七軒町、関口水道町、大塚市電終点、根津八重坦町、早稲田鶴巻町、山吹町、谷中真島町、日本橋難波町、浜町蠣殻町の地が数へられて居る位で、此の指ヶ谷町附近が暗娼地区たる事実は白山三業組合組織が出来て後暫くは尚残つて居つたのであつた。