白山三業の沿革と発達

  1. 白山繁昌記
  2. 白山三業の組織
  3. 白山三業の沿革と発達

白山花街即ち指ヶ谷町は、往古小石川村一部の民有地で、元は欝蒼たる樹林を以て蔽れた処であったが、元和九年伝通院領となり、 徳川六代将軍家宣公の時代に開拓されて宅地となり、始めて市塵を開いたのである。 東には駒込西片町の高台、 北には白山神社の丘陵、 西には蓮華寺の高台あり、その間に介在する低地で谷を形威し、寛永の昔三代将軍家光公が、之の辺りで放鷹した折り「あの谷」と指さしたと言ふので、指ヶ谷の名が起ったと伝へられて居る。

其後隣接の地、北は本郷肴町、南は小石川代町、旧八千代町柳町等に通ずる幹線路敷設され、漸次柳町肴町等に市街を形成し追々繁栄を呈すると同時に、私娼的の飲食店各所に出現し、明治廿七八年頃よりは、指ヶ谷町一四六番地の一角に、俗称八軒矢場と称する銘酒店遊戯所十数軒散 点、孰れも相応の繁昌を来し、尚同所より南へ約三丁を隔てた柳町二十二番地の一角にも三四軒の開業を見たが、上記八軒矢場の繁昌に及ぶ可くもあらず、何時の間にか其影を失ひ、八軒矢場のみ依然として隆盛を極め、不頼の徒、不良の徒の横行闊歩を見るに至ったのである。

為めに所轄警察署は、其弊害の甚だしきを憂ひ、之が撲減を企図し、種々の手段を講じて厳重に取締った結果、明治四十二年頃には、さしも繁昌を極めた八軒矢場は漸く衰ひ来り、後には僅々二三軒を残すのみとなったが、全然之を楼滅する迄には至らなかったのである。

斯かる情勢を続け明治三十七八年頃になると、料理店かね万楼主人秋本鉄五郎氏は、大に此の点に鑑むる処あり、柳町有志其他を糾合して此等の私娼窟及不頼の徒を掃蕩し、土地の繁栄を計らんものと、万難を排し三業指定地の許可を其筋に出願したのであるが、当時東京各方面従来の 花柳地は幕末及明治初年以降からの旧い沿革を持って居る為め、警視庁令に依る慣例地なるの故を以て、指定地として認定されたのであったが、白山三業は此の慣例地として認めらる資格がなかった為め、生みの悩やみは相当深刻を極め『前例なき処には許可せず』との理由で、其願は当局の容るゝ処とならず却下となりたるも氏は屈せず撓まず、今は亡き当時の小石川選出府会議員大井玄洞氏等の尠なからざる応援を受け、其地域を或は柳町に或は八千代町(当時は八千代町と称す)に定め、再三再四の出願を続け遂に明治四十五年六月廿四日に至り、現在の地即ち指ヶ谷町に始めて芸妓屋、待合茶屋の指定地としての許可を受くるに至ったのである。 之れ慣例地以外の先鞭であった。 即ち其指定地は指ヶ谷町一三七番地、一四四番地、一四五番地、一四六番地(総坪数七四八一坪三合)で、其後大正十四年四月には、更に指ヶ谷町一三三番地壱千坪余を、拡張指定地として其筋の許 可を受けたのである。

而して秋本鉄五郎氏は許可後四日目に場所が白山神社の近くにあるところより白山の名を冠して、直に三業組合を組織し、事務所を指ヶ谷町百四十六番地、現今の白山閣の染物店の場所に設けた処、之れより白山上町には御料理店万金楼あり、角金楼あり、既に指定地許可を見越しての 師匠組監札を以て、客席に待べる者あり、宛然たる花柳界を形作って居ったのであるから、イザ許可の指令あり、組合を組織すると聞くや、孰れも馳せ参じて組合に加盟し、矢場(銘酒店)の残影亦之に加盟し、完全に往時の八軒矢場は其影を滅するに至ったのである。 然るに組合組織後一ヶ月に達するや、測らざりき恐れ多くも明治大帝の御崩御に遇ひ、発展の萌しに相当の影響を蒙ったが、同年九月には芸妓屋七八軒、芸妓十数名、待合茶屋五軒、料理店十数軒を算するに至った(確実なる記録書類なし)

其後組合員全力を挙て組合の発展に努力した結果、大正二年には芸妓数四十余名に達し、総員挙げて上野公園開催の大正博覧会に出演し、先輩花柳界に漸く其名を知らるゝに至った。 次で大 正五年末には芸妓屋数廿九軒、待合茶屋十八軒、料理店十三軒を数ふるの発展を来し、大正六七年頃には異状の盛況を呈し、同七年末には芸妓屋五十六軒、待合茶屋三十五軒、料理店十五軒となり、八九年の好況時を紅て、十年末に芸妓屋九十八軒(芸妓総数三百五十余名)待合茶屋六十八軒、料理店十七軒を算し十年以後、経済界漸攻不況を呈するや、大正十三年の大震火災当時迄芸妓屋は約十軒減少して八十軒となり、(芸妓数二百八十余名)待合茶屋も亦一割方の減少を来したのである。

大震大災には幸に大災を免れたる故、直後十月より営業を開始し、罹災芸妓の収容等により芸妓屋敷に於て五六軒を増加し、芸妓数三百二十名内外となったが、数年来経済界の不況は此の花街にも影響し、少しく営業者の数を減じ、芸妓屋七十四軒、待合茶屋八十軒、料理店十軒を算し、芸妓総数二百十一余名(実際営業者百六十七名)を算するに至った。

尚許可地附近も指定許可前後より異状の発展を示し、古来裏通であった指定地を縱断せる道路の両側は大正八九年頃には完全たる商店街を形成して借家権及家賃の暴騰を告ぐるに至り、尚芸 妓出入の料理店年々増加し、其発展一時は驚く可き数を示したが、最近に至っては前述の如く不景気風に襲はれ、営業者の数稍々減少するの傾向あるは止むを得ざる次第である。