創立者 秋本鉄五郎氏略歴

  1. 白山繁昌記
  2. 第五章 組合創立当時の苦心
  3. 創立者 秋本鉄五郎氏略歴

白山三業界の今日の繁昌は其の源泉に遡りて見れば、其の創立者たる故秋本鉄五郎氏が功労に帰さねばならぬ。 即ち同氏は明治四十一年から四十五年に渉る四ヶ年間、万事を放擲し、只専念一意此の三業界創立の為めに同志を語らひ、監督官庁たる警視庁に許可出願の請願運動をなし、永い間の運助の為めに家財を蕩盡し、夫れにも屈せ撓まず巨額の負債をなしてまで運勧奔走を続け、警視庁に対する許可の請願にしても、却下されては上申し、それが又却下されても又直ちに繰り返し、懇願、申請を重ぬるもの前後八回と云ふに到っては其の根気のよいのと、什麼しても其の目的を貫徹せずば置かないと云ふ気魄は終に明治四十五年六月二十二日に到って警視庁をして小石川指ヶ谷町に三業指定地許可の指令を出さしむる事に由来するのである。 是れが実に三業指定地取締令改正後最初の許可に属するものであった。 其の許可を得ることの容易でなかった。 条件を加重するものであった。 今日白山三業界の繁栄と発達とを叙するに当り、其の功労者を頌するに当つては先づ第一に此の秋本鉄五郎氏の功績を叙せねばならぬ訳である。

秋本鉄五郎氏は、安政四年五月五日、神奈川県高座郡藤沢町羽島の人、父は秋本市左衛門、其の長男に生れたのである。 少壮、志を立てゝ上京し、神田駿河合に一時寓居を定めてから、明治二十九年頃、小石川の地に居を構ふることゝなり、初は八千代町三十八番地に於て酒舗を開業し、明治三十年埼玉県入間郡富岡村北中、平田美や子(明治八年生)刀自を娶り、琴瑟相和して商業に従って居たが、偶々近隣よりの出火に類焼の災難に遭ふたので、現今のかね万の八千代町(当時八千代町)所在地四十七番地に店舗を新築して営業を継続して居た。 此の頃の屋号は万屋と称して居たのであった。 そして当時此の附近は、田圃の名残りを留めた低温の沢地、雑草茫々たる野原が多く、夏は蛙鳴を聞き、冬は人影さびしき荒涼たる郊外地らしい景趣があって、とても今日の賑かな三業地を想像することは出来ないのであった。

明治四十年、此の頃は段々土地も開け来り、上野には博覧会の開催される当時であって、市内も開け行く気運に向ひ人心自ら引立つのであった。 同年四月十日感ずる処あって、酒店を罷めて料理店を開業し、名称を茲でかね万と改むることとした。 営業の品目は日本料理の外に蒲焼、すし、西洋料理を看板にした。 当時は柳川亭も未だなく、近隣には料理店らしい料理店はなかった。 場合で、此の土地として最も花々しい営業振りであった。

料理店かね万を開いた翌年の明治四十一年の正月のことである。 指ヶ谷町附近の有志者が新年の祝賀会をかね万に於て開いた処が、酒席の興を添へる為め下谷の同朋町から芸妓を招く予約をして置いた処が、先方が忙しいので終に違約して来らない。 列席者も正月匆々からの手違ひではあるし、不気嫌の体で散会した始末に、秋本鉄五郎氏は料理業と芸妓との関係から云ふても此の土地に芸妓がなくてならぬことを痛感すると同時に、当時の此の指ヶ谷町八千代町附近は極めて貧窮者の巣窟であって、何かにつけ東京市及小石川区からの補助救済を仰ぐ場合が少なからざる次第であった。 従って此の土地から区市に対する負担及納税も誠に微々たるもので、茲に大に土地を殷賑にして反対に此の土地から区市に貢献する様に思ひ付きて、此の土地に三業界を創設せんとの計画を立てたのであって、是から三業指定地許可の運助に取りかかったのであった。 其の第一回の許可書を出したのが明治四十一年五月一日であった。 当時の警視総監は彼の豪邁な亀井英三郎氏であって、其の願書を受付けた時、許可願書を一瞥して亀井総監は、小石川区には如何なる事由があつても三業指定地を新設せぬと一蹴したさうであつて第一回から徹底的不許可の難関に正面した訳であつた。 然し鉄五郎氏の決意は実に鉄の如く固かつた。 第二回目の願書が同年十月九日を以て直ちに提出せられたのである。 それも勿論却下、それから第三回が明治四十三年五月二十六日、第四回目が同年九月五日、第五回目更に同年中に繰返され、第六回目が明治四十四年三月四日、第七回目が明治四十四年九月五日、最終の八回目が明治四十四年十一月十四日で、其の許可が翌四十五年の六月二十三日に下附されたのである。 是れは只八回の回数と其の年月日とを列記したに過ぎないが、其の苦辛と忍耐とは並大抵のものではなかつたのである。 初め賛成して呉れた人々も只却下と再願との同一事が繰返されるのみなのに飽きたると運動資金の窮乏との為め、終にはよりつかず、杉沢勘二郎氏外一二の人を除いては相談相手にもならぬ有様であつた。 只鉄五郎氏の根気が此の許可をかち得たのであつた。 此の成功をもたらし得たのであつた。

許可の翌二十四日直ちに白山三業組合事務所を、指ヶ谷町百四十六番地、現今の白山閣の前、染物店の場所に創立し、同時に芸妓屋営業許可願を金よろづ、金蔦、松田家の三軒をして出さしめた。 是れが抑も白山三業地に芸妓屋営業の出願の先駆をなすものであつた。 以後続々待合芸妓屋の出願は相続いて今日の盛況に赴く地歩を運んだのであるが、是れ別項三業の発達記に譲る事とする。

指定地許可の目的を達してからは、組合創立と此の許可運動の善後処置に就て、調金等の為めに鉄五郎氏は又少なからぬ奔走をなした事は人知れぬ苦心の物語りであつた。 然し茲に彌々白山三業組合の組織も成り、秋本鉄五郎氏は其の頭取に推されて同志同業から従来の苦心功労を認められた訳である。

大正四年三月十三日白山三業組合を白山三業株式会社と組織を改むるに当つて秋本鉄五郎は茲に取締役社長に選任せられ、爾後其の職にあること九ヶ年、白山三業界の為めに渾身の努力を傾倒して茲に動かす可らざる営業の基礎を築き上げたのである。

大正十三年四月七日、胃癌を病み、終に不帰の客となつたのである。 同小石川音羽護国寺に社葬を以て葬る。 小石川区内の諸名士は申すに及ばず、業関係者多数の会葬者あつて非常なる盛葬であつた。

かね万は爾後未亡人美や子刀自、監督の下に営業を継続して増々盛大に赴いて居た。 其後養子ふさ子に良縁あつて、現当主吉次氏と結婚し、営業は今現に盛大を極めて居る。

秋本鉄五郎氏の葬儀

出願者として又会社創立以降の社長たる秋本鉄五郎氏は大正十三年三月宿痾の為め病床に臥ずや、三業挙げて平癒を祈らざるものなかりしに、天斯の人に壽を仮さず、四月七日遂に逝去せらる、依而三業役員は総員出動葬儀委員を編成し四月九日伝通院に於て仏式葬儀を行ふことゝなりたり、其の日春風和やかに桜花咲き乱れて天日共に此の偉人の死を送るを飾るものゝ如く、午前十一時かね万楼を出棺し、指定地を一順して業者に別れを惜まれつゝ、造花、生花、仏具、放鳥の列は数町に続き、震輿に続く町内有志、消防組、三業営業者の葬送者此列は、先頭が初音町に達するも尚ほ後部は指定地に在るの盛況を示せり、午後一時伝通院大伽藍にて院主の厳かなる法要に式を終りたるも、此の大行列に群集せる人々は尚ほ去りやらず、寺内の桜樹より降りそゝぐ花片の中に供養の放鳥の啼き囀へずるを聞く。