組合創立の功労者 杉沢勘次郎氏

  1. 白山繁昌記
  2. 第五章 組合創立当時の苦心
  3. 組合創立の功労者 杉沢勘次郎氏

杉沢勘治郎氏は白山三業株式会社の創立に就いては、其の創立者秋本鉄五郎氏を扶けて其の目的を達するに多大の尽力をなした功労者の一人である。 そして組合が成立すると同時に待合は開いて居なかったが、最初の待合組長となった人である。 慶応三年七月六日、江戸下谷車坂町に生れた。 尚小石川区に住むことになったのは明治三十九年であって、初めは初音町四十五番地に居住を構へ翌四十年柳町二十三番地に移って居たのであって、今日では白山三業株式会社とは関係はないが、三業組合株式会社組織に改められた時、其の創立当時の功労を表彰して同会社から銀杯を贈与して記念とした。 現今は柳町に旧来の営業葬具店を継続し、柳町睦会評議員、相談役等に推されて居る。

杉沢氏は創立当時の苦心を追懐して語る。

秋本鉄五郎氏が此の白山三業組合を創立する当時の苦心と云ふものは今日到底お話しても皆様には分らぬ位のものであります。 何事でも一事を仕遂げると云ふことは並大抵の苦労では出来上るものではないのでありますが、此の白山三業の創立に就いて秋本氏の払つた苦心、儀牲と云ふものは非常なものでありました。 秋本氏の三業を起さんとした動機と云ふものは明治四十一年の頃でしたが、此の指ヶ谷町附近の有志が集つて新年祝賀の懇親会をした処が、酒席の間を取持つ為めに同朋町から芸者を招んだ処が、約束をしておいたにもかゝわらず、忙しいので間に合はなかつた。 そとで是れは、どうしても土地に芸妓をおく様にしなければ土地の発展を期することが出来ない。 料理業者も営業上非常な損である、それに土地からも多額の税金を負担する事が出来て区や土地の為めともなると考へ、土地の有志にも相談した処が皆んな賛成なので、指定地許可の請願をしたのが明治四十五年であつた。 処が、許可がそう安々とは来ない。 度々の請願書の却下で、許可の見込みがない。 初め賛成をしたものも終には飽きて相談にも来ないと云ふ有様であつた。 夫れにも屈せず秋本氏は専心一意其の願意貫徹の為めに百方奔走した。 然し何としても運動資金の欠乏はおろか秋本氏個人としても私財は使ひつくす、出来る丈けは調金をしつくしたあとなので如何ともする事が出来ない窮境に陥つて居たのは誠に御気の毒であつた。 然しそれにも屈する色をも見せなかつたのであつた。 土地有志の賛成連判を戴く為めに、秋本氏と私、夫れから沢田金次郎氏、其の他の人と丁度約一週間許り廻つて戴いたこともあつた。 其の中には鳩山和夫先生の御名もあつた様に思ふ。 最後にとうヽ目的達成の日が来た。 明治四十五年六月二十日の朝であつた。 前方より許可の下りる事は略分つては居たのであつたが、其のぼの朝、警視庁から、はかきで出頭しろと云ふ旨を知らせて来た。 秋本氏は其のはがきを持つて私の未だ寢て居る内に来られた。 私共はほんとうに大喜びであつた。 是れから直ぐに警視庁に行くと云ふ、見ると秋本氏は非常にきたない帽子を被つて居るので、私は其の帽子では余りにひどいからと云ふて、近所の帽子屋を叩き起して帽子を新調せしめて警視庁へ出頭せしめた。 此の一事でも秋本氏が只此の運動の為めに何物をも犠牲にして資金も何もつき果てゝ居たと云ふ事が推察せられるであらうと思ふ。

近辺の人々が其の事を聞き伝へ喜びに来て呉れて居たので丁度此の日の二時頃から私共がかね万の二階で拶挨をして居ると、そこへ秋本君が警視庁から指定地許可確定の吉報をもたらして帰つて来たのは午後二時頃であつた。 秋本君もそこへ出て来会の方々に御礼を述べた。 夫れから秋本君は白山警察分署へ出頭して営業上に就いての指図をうける、一日は斯うしてごたヽして過ぎて翌二十三日、白山三業組合の看板をかけ組合頭取と料理店組長には秋本鉄五郎氏、待合組長には私、芸妓屋組合長には四谷花むさし荒木武一氏がなつて届を出した訳であつて、そして第一番に芸妓として出たのは、大助さんであつた。 此の芸妓は許可運動の一方、いつ御客からお酌をする者をとの御座敷の注文がないとも限らぬからとて、其の以前から荒木氏がきたない長屋を借りうけ、遊芸師匠の名で出しておいたのであつた。 丁度三業創立の日、二十余年の思出で話である。