一、芸妓屋営業の指定地として、 許可されたのは前述の如く明治四十五年六月廿四日で、 最先きに芸妓屋営業の許可願を出したのは『金よろづ』の荒木武一氏であった。 夫れから『金蔦』『松田家』と相続いて願書を出した。 夫れから段々営業出願が増加し『金よ路津』『かね蔦』『松田家』『松よし』『真桝』『美登家』『喜楽家』『万蔦』『金桐家』と云ふ顔振れが、白山芸妓屋の歴史の最初の頁を賑かしたのである。
三業組合の最初の事務所は、現在の白山閣の前、百四十六番地で、御隣りは後援者であった橋本と云ふ御医者様そこへ白山三業組合事務所の看板を上げた。 二階は六畳一間、階下は二畳と四畳半の二間限りと云ふのである。 今日の事務所の盛観に比べて誠に比較にならぬ狭小なものであった。 組合事務所には金がない。 許可の翌日、金蔦から五十円許りの金を融通して貰って仕事を始める軍資としたと云ふ内輪話しは創業当時の苦心を追懐せしむる材料である。
一、芸妓屋営業の許可を得る為めに奔走した主体は勿論秋本前社長であったが、夫れに幾多の人が参加して共々運動した。 高野季晴氏も最初から秋本前社長の下に働いて居たのであった。 余り運動に熱心な余り、安楽警視総監に直接逢はせて願意を聞届けさせてやるからとの好餌の下に運動費を詐取せんとした不徳漢があって、秋本前社長と高野氏は浅草の一待合で其の男の為めに危くも多大の金を誤魔化されんとしたが、幸にも秋本前社長が之を観破して事なきを得たと云ふ喜劇もあった。