現白山三業株式会社長秋本平十郎氏は曾て当三業組合の創立者たる前社長秋本鉄五郎氏の養子となつた人であり、 又、 故秋本鉄五郎氏の内室たる美や子刀自は、実は平十郎氏の実姉に当る関係にある。 明治二十五年一月五日、埼玉県入間郡富岡村に生る。 明治三十九年三月入間高等小学校卒業、上京して大原簿記学校に入り同校卒業の後、京華中学校に入学した当時養父たりし秋本鉄五郎氏が家財は勿論凡てのものを犠牲として白山三業組合創立に身も魂も投入して居つた頃なので京華中学に入学して幾年ならざるに学資の供給意の如くならざる為め、同氏は自活の道を立つる事を決意して明治四十五年四月養父鉄五郎氏の許を辞して群馬県新町に赴き、日本絹糸紡織株式会社に勤むることとなつた。 居ること半年にして同社を辞し、佐橋技師の紹介に依つて明治四十三年十月、鉄道院東部鉄道管理局工作課大宮工場に勤むるを得た。 そして夜間は浅草区所在の東京商工学校に通学し、約一ヶ年間勤務と勉学に勵精した。 明治四十四年十月大宮工場から転任せる室田技師に伴はれて共に新設の千葉鉄道連隊材料廠機械部に転勤、同四十五年職を辞して東京に帰つた。 此の帰京は秋本鉄五郎氏から、白山三業組合指定地の許可が決定せんとする好気運に向ひつゝあつたので、其の創立事務に同氏の協力を求めんが為めであつたのだ。 勿論同氏は京華中学在学中から三業組合許可出願の書類の作製等には尽力して居ったので、最初より鉄五郎氏と此の出願運助には苦心を重ねつゝあつたのである。 帰京後は更に新鋭の勇気を鼓し鉄五郎氏を扶けて、終に此の年の六月二十二日を以て指定地許可を得て其の目的を達し、四十一年以来の苦心が酬ゐられた訳であつた。 指定地許可を得た翌二十三日白山三業組合を組織し、秋本鉄五郎氏の頭取の下に会計係として就任することとなつた。 大正四年三月白山三業株式会社成るや、秋本鉄五郎氏社長の下に支配人となり、大正十年取締役に選ばれ、大正十三年鉄五郎氏死去の後欠員となつて居つた社長の椅子に就くことになつた。 同氏が社長就任後、社の為めに尽したる功労成績は別項白山三業の沿革発達史に明かに記されあれば茲には再言することを避けるが、白山三業組合が他の三業関係者から最も一糸乱れざる統制ある組織として羨望の標的となって居るのは、同氏が社長就任後鋭意当社の発展と統一とに献身的努力を払つた結果であることは社内外の斉しく認めて居る処であることの一事は特筆せねばならぬ。
大正十三年九月秋本平十郎氏は区有力者の推薦に依って第一回所得調査員選挙に立候補し、東京市中に於て最高点九百八十八票の多数を得て当選したるを最初とし、大正十五年十月二十一日第二回の立候補を以て税法改正の結果に依る所得調査員の改選に当選した。 此の調査委員任期中本郷小石川所得調査会長に選任せられた。 大正十四年十一月小石川区会議員選挙に当選、昭和四年十一月、小石川区会議員選挙に第二回目の立候補をなし多数の投票を得て当選し、昭和七年六月十日美事東京府会議員に当選し、今日現職にある。
大正九年十月指ヶ谷町会幹事長に推選され、同十一年更に同会副会長に推され、今尚其の職にある。
昭和二年六月六日指ヶ谷町会旗を調製して同会に寄附し同会より左記の受領状を受けた。
受領状
一、町旗 一旒
東京市小石川区指ヶ谷町々会ハ遂日隆盛ニ赴クニ際シ益々発展ヲ祝スル為メ今回町旗ヲ調製シ御寄贈ニ相成洵ニ忝ク感謝ノ至リニ堪ヘズ依テ本町会ハ貴下ノ御厚志ヲ永遠ニ伝フ可ク茲ニ会員ヲ代表シ謹ンデ受領仕候
昭和二年六月六月
指ヶ谷町々会
会長 関幸作
指ヶ谷町々会副会長 秋本平十郎殿
大正十二年震災地人口調査員を嘱託せられ、大正十四年十月には国勢調査失業統計調査員、大正十三年十月には東京市勢調査員を嘱託せられた。 是れは同氏が常に町区市等の公共事業に努力しつゝある一例を示すものであつて、以て同氏の風格を推想することが出来るのである。
秋本平十郎氏が一般三業界に尽せる功績としては大正十年芸妓税の二等地減額に就いて課税負担の不公平なることを東京府会に対して陳情し遂に百方奔走の後其の目的を建したことは永久に三業史に特筆大書せられるものであらう。 然し更に昭和二年一月、東京市の大間題として与論攻撃の焦点となつた東京瓦斯会社対東京市報償契約改訂問題の起つた際は、大崎氏の指示に基きて各区会連合会を組織し、其の尖端に立つて反対し、終に市会をして是等正義的雄叫に聴従せしめたのであつた。 是れは同氏等の運動が東京市民から大に感謝せられねばならぬ処であつた。
明治四十五年以来小石川区に於ける凡ての選挙は一として同氏の関与せざるものなく、同氏の自身の選挙又は同氏の応援せる選挙に於て一として当選成功を得ざるはない。 鳩山一郎先生の選挙は勿論同氏の先輩たる大井玄洞氏、大崎清作氏等の選挙の裏面には必ず同氏の熱烈なる応援奔走が影の形に添ふが如く動いて居るのである。 是れは同氏の先輩を尊敬すること厚き一面を語ると共に選挙に対する精通と熱心とを示すものである。 尚此の外、同氏の関与せる事業としては、大正五年日本橋三業株式会社を創設し、其の取締役に就任し、大正十二年には大塚三業組合の創立に尽力、其の三周年記念に際しては深厚なる感謝状と共に目録一封を贈られた。 昭和三年十一月十九日、白山キネマ株式会社(資本金八万五千円)を創立し、同社長に就き今日に至つて居る。
尚同氏は現に全国芸妓屋同盟会小石川支部長と全国芸妓屋同盟会本部常任幹事を勤めて居る。 同氏は今正に活動的壮齢に当つて居るので今後の活躍は刮目に値するものがあらう。