現白山三業株式会社取締役支配人島田豊三氏は、 明治二十二年二月十四日、 本郷区真砂町に生る。 父は島田友楠氏、 紀州和歌の浦の人、 島田氏は幼少の頃、 小石川八千代町(現今八千代町)椎木小学校に学び、 後転じて本郷尋常高等小学校を卒業し、 夫より神田淡路町開成中学校及び棚橋一郎氏経営の浅草区所在の東京商工学校を卒業した。 同氏は十二歳頃より大蔵省に出仕して居ったので、 前記の二学校も凡て夜間通学し、 年少時代には非常に苦辛を経験したものであつた。 そして明治三十七年六月、 十六歳の時昇進して雇員となることが出来た。 明治四十二年十二月、 徴兵適齢を以て近衛砲兵連隊に入営、 衛生部に採用せられ在営二年上等看護卒となり、 帰休除隊の時には下十適任証及善行証を下附せられた。 夫より再び大蔵省に勤務し、 間もなく辞して大正元年、 読売新聞社に記者として入社、 在社一年にて罷め、 爾後弁護土磯部四郎博士、 代議士宮崎三之助氏の知遇をうけ、 同氏の選挙事務に鞅掌し、 其の間東京製炭株式会社、 及合資会社長谷川商店を創立、 支配人及業務執行社員として両社の事務を担当して居たが、 大正九年に至って両社を退いた。 是より先き大正五年十一月小石川指ヶ谷町百四十六番地に芸妓屋三浦家を開業して、 白山三業界の人となったが、 大正十一年六月白山三業株式会社副支配人となり、 続いて昭和二年六月支配人に進み、 昭和五年十二月、 制度改正と共に取続役となり、 支配人を兼務して今日に到った。 趣味は舞台芸術家として一家を成し川柳界に於ては十七八歳の頃より点者格として認められ、 読売派の重鎮として其の作句は一般の愛誦をかち得て居た。 書道は幼少より書家松岡明石先生の薫陶をうけて筆力雄健殊に大字を書するの妙技がある。 書は南書及図案意匠を研究し、 大蔵省専売局勤務時に於ては其の方面を担当し、 煙草包装のアルマ、 不二、 弥生等の図案は実に同氏の意匠に成るものであった。 其他趣味は舞謠小唄の作詞より遊芸各般に至るまで多方面に渉り、 且つ社交にかけては円転滑脱ユーモアを解せる業界稀に見る才人である。 此の白山の土地発展の為めには秋本氏を助けて白山キネマを起し、 其の取締役となり、 創立より業務の実際に当って居る。 尚御座敷ダンスを研究して芸妓とダンスとの調和を得て之を御座敷芸に取入れ、 白山の一名物としたのは一に同氏の努力の結晶である。